2008年1月17日木曜日

邯鄲の夢:その解釈だけなのでしょうか


邯鄲の夢:その解釈だけなのでしょうか
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 「邯鄲の夢」で検索すると23,000件出てきます。
 有名な説話であることがわかります。
 栄枯盛衰のはかないことの喩えとして、解釈されることが多い。
 せっかくの検索エンジンである、もうちょっと知識を増やすために使ってみる。

 いつものようにWikipediaを見てみる。
 が、「邯鄲の夢」は編集中でそのページは存在しない。
 同じように「邯鄲の枕」「邯鄲の歩み」も編集中である。
 「邯鄲」から検索する。


 「邯鄲(かんたん)」とは栄枯盛衰や儚さをさす。
 また邯鄲とは中国の古くからある地域、地名のことであるが、ここでは「邯鄲の枕」(かんたんのまくら)という中国から日本に伝わった一つの物語から派生、発生した言葉やその意味、または文化について明記する。

言葉の意味の由来と同義語と能
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 「邯鄲の枕」のあらすじ。
 「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ 趙の都の邯鄲に赴く。
 廬生はそこで「呂翁」という道士(日本でいう仙人)に出会う。
 するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。
 そして廬生はその枕を使ってみると50年の間に出世して栄旺栄華を極め王位に就くまでに至る。
 ところが、ある日旅籠屋で床について目覚めると全て夢で、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた栗粥がまだ煮揚がってさえいなかったという束の間の出来事、夢であったという唐の沈既済の小説「枕中記」(ちんちゅうき)の故事の一つである。
 また、中国においては栗の事を黄粱といい、廬生が栗粥を煮ている間の物語であることから「黄粱の一炊」としても知られる。
 所謂、日本の落語や小説、漫画でいうところの顛末、夢落ち(夢オチ)の代表的古典作品としても知られる。

 邯鄲をさす同義語の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが同音異語や異音同語が一つの物語から派生、発生したことは日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れるが、ほとんどの言葉が現在では使われる事がなくなっている。


 残念ながら私はこの出典になる「枕中記」を読んだことはありませんので、あまり強いことは言えませんが、少し気になることがありますので書いてみたいと思います。
 新刊本としては「中国古典小説選5 枕中記・李娃伝・鶯鶯伝他<唐代II> 明治書院 (2006/6/25)」があります。
 大きな図書館には必ずある本としては「中国古典文学大系(平凡社)〈第24巻〉六朝・唐・宋小説選 (1968年)」が対象になるが、これに載っているかどうかはわかりません。
 以前にある本の脚注からその内容を知り、手紙に使ったことがあります。その後インターネットが入ったので調べてみました。
 でもどうも最初に感じたものとイメージが違うような気がしてならないのです。その辺を見ていきたいと思います。


 「邯鄲の夢」を検索したとき、そのトップに出てきた下記のサイトから一部をコピーさせてもらい、もう少し詳しいあらすじを見てみます。


○ 邯鄲の夢
★ http://www.homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-066.htm

----------☆☆ 邯鄲の夢 ☆☆----------

 唐の玄宗の開元年間のことである。

 「呂翁」という道士が邯鄲(河北省、趙の旧都)の旅舎で休んでいると、みすぼらしい身なりの若者がやってきて呂翁に話しかけ、しきりに、あくせくと働きながらくるしまねばならぬ身の不平をかこった。
 若者は名を「廬生」といった。

 やがて廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。
 陶器の枕で、両端に孔があいていた。
 眠っているうちにその孔が大きくなったので、廬生が入っていってみると、そこには立派な家があった。その家で廬生は清河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、トントン拍子に出世をしてついに京兆尹(首都の長官)となり、また出でては夷狄を破って勲功をたて、栄進して御史大夫部侍郎になった。

 ところが、時の宰相に嫉まれて端州の刺史(州の長官)に左遷された。
 そこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた廬生は、いくばくもなくして宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐して善政を行い、賢相のほまれを高くした。

 位人臣を極めて得意の絶頂にあったとき、突然彼は、逆賊として捕えられた。
 辺塞の将と結んで謀叛をたくらんでいるという無実の罪によってであった。彼は縛につきながら嘆息して妻子に言った。

 「わしの山東の家にはわずかばかりだが良田があった。
  百姓をしておりさえすれば、
  それで寒さと餓えとはふせぐことができたのに、
  何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう。
  そのために今はこんなザマになってしまった。
  昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが思い出される。
  あのころがなつかしいが、今はもうどうにもならない‥‥。」

 廬生は刀を取って自殺しようとしたが、妻におしとめられて、それも果し得なかった。
 ところが、ともに捕らえられた者たちはみな殺されたのに、彼だけは宦官のはからいで死罪をまぬがれ、驥州へ流された。

 数年して天子はそれが冤罪であったことを知り、廬生を呼びもどして中書令とし、燕国公に封じ、恩寵はことのほか深かった。
 五人の子はそれぞれ高官に上り、天下の名家と縁組みをし、十余人の孫を得て彼は極めて幸福な晩年を送った。
 やがて次第に老いて健康が衰えてきたので、しばしば辞職を願い出たが、ゆるされなかった。病気になると宦官が相ついで見舞いに来、天子からは名医や良薬のあらんかぎりが贈られた。
 しかし年齢には勝てず、廬生はついに死去した。

 欠伸をして眼をさますと、廬生はもとの邯鄲の旅舎に寝ている。
 傍らには呂翁が座っている。
 旅舎の主人は、彼が眠る前に黄粱を蒸していたが、その黄粱もまだ出来上っていない。
 すべてはもとのままであった。「ああ、夢だったのか!」

 呂翁はその彼に笑って言った、「人生のことは、みんなそんなものさ」。
 廬生はしばらく憮然としていたが、やがて呂翁に感謝して言った。

 「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。よくわかりました。」

 呂翁にねんごろにお辞儀をして廬生は邯鄲の道を去っていった。


 これ、果たして「栄枯盛衰のはかないことの喩え」になるでしょうか。
 私にはどうしても出世物語、「栄華のすばらしさ」としか映らないのですが。
 ストーリーを追いなおしてみます。

 都に上がった盧生はひょんな出会いから唐代の名家の娘を娶る。
 科挙の進士に合格する。
 首都の長官になる。
 戦功をたて御史大夫部侍郎に栄進する。
 しかし、ねたみを受けて州長官に左遷される。
 三年で戻され、その後宰相に抜擢される。
 十年間、よく天子を補佐して善政を行う。
 賢相のほまれを高くした。
 無実の罪で逆賊として捕らえられる。
 死罪だけは免れ、僻地へ流される。
 冤罪と分かり、都へ戻される。
 諸侯に封じられ、天子の信任がすこぶる厚かった。
 五人の息子たちはそれぞれ高官に上る。
 そして、彼らはみな天下の名家と縁組みを得る。
 たくさんの孫を得て、幸福な晩年を送る。
 至福のうちに寿命をまっとうする。

 と、なります。
 栄華を極め、幸せな人生をまっとうした盧生が何故「栄枯盛衰のはかなさ」の象徴になってしまうのでしょう。
 どう考えても理解の枠組みを超えてしまいます。

 「栄・盛」はあります。
 でも肝心の「枯・衰」がどこにも見当たらないのです。
 左遷や冤罪は中国官司の世界では日常茶飯のことで、とりたてていうほどのものではありません。
 菅原道真のように、大宰府に流されて生涯都に復帰できなかったなら「枯・衰」にあたるでしょう。
 ところが盧生は、いとも易く都に戻り、諸侯に任ぜられいます。
 子どもが五人もいて、それぞれが高官となり、たくさんの孫に囲まれて、安楽な余生を過ごして人生を全うした、とあります。

 何かおかしくありませんか。
 最後の部分をこうしたらどうなります。

 呂翁はその彼に笑って言った、「人生のことは、みんなそんなものさ」。
 廬生はしばらく憮然としていたが、やがて呂翁に感謝して言った。
 「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。
 これは先生が私の未来がいかに輝かしく、栄光に満ちたものであるかを見させてくれたものと思います。
 なんと我が人生がすばらしいものであるか、これから都に上ってもこれ以上の栄華を身にうけることはないということでしょう。
 望まれる限界まで到達させてもらいました。
 これ以上の欲は持ちたくとも持ってはならないものだということだと思います。
 これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。よくわかりました。」

 呂翁にねんごろにお辞儀をして廬生は邯鄲の道を去っていった。


 盧生はたまたま、夢でその限界まで見てしまったため、それ以上は自らが「天子」になるほかなく、天子を目指すということは「反逆者」になるということになります。
 それはできぬと思い定め「欲を塞いだ」のではないでしょうか。

 日本なら「平将門」になるということです。
 夢で自分の未来を知ったとすれば、人は更なる上を求めて実際の行動を起こすでしょう。
 起こさざるをえないのではないでしょうか。
 ということは反逆者になる、ということになる。

 栄枯盛衰物語の極地ともいわれる平家物語ならこうなります。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
 奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
 猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 栄華の頂点を極め、「平氏であらざるものは、人にあらず」とまで言わしめた平氏が、源氏にやぶれ、身を隠し、落ち武者として人も訪れぬ山間でひっそりとくらすはめになったという史実を踏まえて、平家物語の著者は語ります。
 月とスッポンの差です。

 近世合理主義の体現者である織田信長ならこうなるでしょう。

 人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。
 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。

 これは平家物語において平敦盛が熊谷直実に討たれる時の「辞世の句」とされていますが、信長の好んだ謡であり、桶狭間の戦いを前にしてこの「敦盛」を舞ったという逸話が伝えられています。
 信長は周知のように本能寺で死んでおり、死体すら見つかっていないといわれていますので、当然のことながら辞世の句はありません。
 この句にはまさに「栄枯盛衰のはかなさ」がにじみ出ているが、「滅せぬもののあるべきか」と謡いながら、「天下布武」を旗印に天下掌握のために乗り出している。
 そこには歓喜が満ち溢れています。
 「人生なんてそんなもんさ」と卑下せず、「人生とはこんなものだ」と栄光へエネルギーを注ぎ込み続けている。
 それが妹の子が徳川家光を生み天下の主の血筋に連なることになります。

 最貧層から身を起こして、絶頂を極めた豊臣秀吉ならこうなる。

 露と落ち 露と消えにし 我が身かな。
 浪速のことは 夢のまた夢

 栄華を極めつくし、朝廷から「豊臣」という姓までもらい、一般人では得られぬ幸福を嘗め尽くした人生。
 晩年はただ子ども可愛さの何処でもいる普通の「耄碌じいさん」としてその生涯を終える。
 一介の百姓から出てよくもやったり、よくもやったりである。
 どこにも「栄枯盛衰のはかなさ」などない。
 ただただ人生をまっとうしただけ。
 夢を夢として実現した。
 浪速の夢を夢として終わらせることなく、現実として掴みだし描き出した一生。
 見る夢を、得る夢にした人生。
 いわば「我が人生に悔いなし」である。
 ただ、子孫はその血筋に恐れおののいた徳川家康に根絶やしにされてしまいますが。  

 「邯鄲の夢」の栄華とは、世に生を受けた者なら誰もが描く極限のものでしょう。
 とはいえ、それを受けられる人はわずか一握りの人に過ぎない。
 後の大勢は敗組です。
 そしてそれがほぼ全部である。
 ならば夢ででもというのが、人というものであろう。

 「お前にだって、こうなれるチャンスはある、ただちょっとしためぐり合わせが悪いだけだ。  がんばれや、夢のようにはいかないが、そこそこにはなれるかもしれないぞ」
というのが、この夢が語っていることではないのでしょうか。
 「希望を捨てるな」
 大志を抱けということではないでしょうか。

 邯鄲の夢のような栄華は無理としても、その百分の一くらいのものは目指せるかもしれない、ということだと思います。
 「栄枯盛衰のはかなさ」など微塵もなく、誰もが抱く「栄華への願望」、「人生へのポジテイブな欲望と期待」です。
 人を理想に駆り立てる第一級のモチベーションだと思います。
 人間の寿命はそこそこ誰も同じです。
 80歳程度で百歳生きられる人は少ない。
 「人は必ず死ぬ。間違いなく必ず死ぬ」。
 始皇帝のように不死を願って、徐福に霊薬を求めさせようと旅立たせることはできない。
 ならば生きているその間に、栄華を求め、それを味わおうと思うのが普通人の心情でしょう。
 至極当然の想いであり振る舞いです。

 周りが二百歳まで生きるているのに、自分は八十歳で終わりというなら人生短いと感じることもあろうが、そこそこ皆条件が同じなら、要は生きているうちにどこまで、何ができるかにかかってくる。
 それが人生の「満足度」というものではないだろうか。

 「道士」という言葉がでてくるので、老荘系の道教の説教話だと思われます。

 ためにすべてをネガテイブに捉えて理解しようとするために、話の前と後ろが唐突に無理につなげられたような感じになっています。
 それを除いて読んでみれば、きっと壮大な「栄華物語」としてあったのかもしれない。
 もしかしたら、老荘系の連中がそれまで語り伝えられていた人気の栄華物語を妬んで、改変してしまったのかもしれない、と十分に考えることもできます。

 老荘の道士の言っていることだ、間違いはあるまいと無批判にその解釈を受け入れてはいないでしょうか。
 想像をめぐらすことは何ぼでもできますが、私には「邯鄲の夢」はどうしてもひっくり返しても「栄枯盛衰のはかなさ」には読めないということなのです。

 電子網に載っているさまざまな記事を読んでみると、はじめから「栄枯盛衰のはかなさ」ありき、という論理から出発して、もう決して動かすことのできない固定の結論が出ており、そこから意見を開陳しているような印象をおぼえてならないのです。

 解釈にはいろいろあっていいと思うのですが、決まった道筋を歩かないと居心地が悪いのでしょうか。
 他人の意見にただ盲目的に追従することなく、もう少し自分の意見を入れた方がいいのではないかと思えるのです。

 Wikipediaの最後の文章。
 「
 邯鄲をさす同義語の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが同音異語や異音同語が一つの物語から派生、発生したことは日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れるが、ほとんどの言葉が現在では使われる事がなくなっている。

 なぜ、日本では使われなくなったのか。
 私は、この「邯鄲の夢」という言葉、最近になって中国関係の小説を読むようになってはじめて知ったに過ぎないのです。

 ということは検索件数に比例するほど、さほどに日本ではポピラーではない。
 知的な響きがありますので、オタク的な発想を持っている人はよく知っている。
 でもごく一般的な人には知られてはいない。

 それは何故か。
 平家物語と比較してもわかるように、決して「栄枯盛衰のはかなさ」などもっていない。
 「方丈記」と比べてもない。
  様々な仏教説話と比べてもない。

 むしろ波乱万丈、サクセスストーリー、すばらしい栄華物語なのです。
 「盧生一代記」なのです。

 それを誤って旧来のまま「栄枯盛衰のはかなさ」と解釈し、それを改めることがなかったことによって、昨今の感覚との不具合が大きくなりすぎ、現代的解釈にフィットできず、消え去り行く運命を担ってしまったのではないでしょうか。

 前後にとってつけたような呂翁道士と陶器枕、それから無理やり引き出したような老荘解釈、なにかこじつけたような感じを受けるのは、私だけではないような気がするのですが。
 いかがでしょう。



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